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中日ドラゴンズしか残らなかった

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中日ドラゴンズ 人とともに~With Human~

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中日ドラゴンズ あなたの喜ぶ顔が見たい。

今から14年前の本日(10/10)、2006(平成18)年10月10日、

落合博満監督率いる中日ドラゴンズが、2年振り7度目の優勝を達成した。

この日(2010/10/10)、「マジック1」で東京ドームの巨人-中日戦を迎えていた中日ドラゴンズは、

3-3の同点で迎えた延長12回表、福留孝介のタイムリーと、タイロン・ウッズの満塁ホームランなどで、一挙6点を挙げ、

中日が9-3で巨人を破り、中日の2年振りの優勝が決定した。

 

 

落合博満監督は、2004(平成16)年から中日ドラゴンズを率いていたが、

中日の監督に就任して以降、試合中は、極力、無表情を装い、感情を表に出さないようにしていた。

それが、この時ばかりは、落合監督は男泣きに泣いて、感情を露わにしていた。

 

 

 

 

落合監督は、試合中はどんな展開になろうと、喜怒哀楽はあまり表に出さず、

常に、能面のような表情で、ポーカーフェイスを貫いていたが、前述のタイロン・ウッズの満塁ホームランが出て、

中日の勝利が、そして2年振り優勝が決定的になった時は、まだ試合が終わっていないにも関わらず、感極まって涙を流していた。

そして、ウッズがベース一周をして、ベンチに帰って来た時、落合が泣きながらウッズと抱き合った場面は、中日ファンのみならず、プロ野球ファンに強い印象を残した。

「あの落合監督が、こんなに感情を表に出すなんて…」

それは、私にとっても、驚きであった。

 

 

 

 

この日(2006/10/10)、東京ドームには、巨人の本拠地にも関わらず、沢山の中日ファンが詰めかけていたが、

延長12回表の中日の猛攻、そして延長12回裏、岩瀬仁紀が巨人の攻撃を無得点に抑え、中日ドラゴンズの優勝が決まった瞬間、東京ドームの半分以上を埋め尽くしていた中日ファンからは、大歓声が上がった。

1988(昭和63)年の開場以来、東京ドームの巨人戦で、相手チームがリーグ優勝を決めたのは、実は、この時が初めてであった。

宿敵・巨人の本拠地で、ドラゴンズが優勝を決めたのだから、中日ファンの喜びも、ひとしおであった。

 

 

中日ドラゴンズの2年振り優勝が決まり、落合監督が胴上げされたが、

落合監督は、この時はもう既にボロボロに泣き腫らしており、胴上げの間も、ずっと泣いているようであった。

落合監督の涙は、それだけ、苦しみ抜いた末に辿り着いた優勝だった、という事を物語っていた。

というわけで、今回は、2006(平成18)年の中日ドラゴンズ優勝にスポットを当ててみる事とするが、

まずは、その「前編」として、2003(平成15)年シーズンオフ、落合博満中日ドラゴンズの監督に就任した所から、話を始める事としたい。

 

<2003(平成15)年10月8日…因縁の「10.8」に、「オレ流」落合博満が、中日ドラゴンズ監督に就任~落合新監督、「現有戦力の底上げで、優勝を勝ち取る」と宣言!!>

 

 

 

2003(平成15)年10月8日、中日ドラゴンズは、退任した山田久志監督の後を受け、

落合博満(※当時49歳)が、中日ドラゴンズの新監督に就任する事を発表した。

「え!?落合が中日の監督をやるの!?」

当時、私も少なからず驚いたが、中日ファンも、この人事にはビックリした人が多かったのではないだろうか。

何故なら、まさか、落合が中日の監督をやる事になるとは、多くの人は、思ってもいなかったからである。

 

 

 

私も含め、当時のプロ野球ファンが、落合が、中日の監督に就任した事が意外だった、という理由は2つ有る。

1つは、落合といえば、「オレ流」という言葉に象徴されるように、

現役時代の落合は、どちらかと言えば、「孤高」の存在であり、決して他人とは群れないで、自分一人でやるべき事をやる、という事を貫いて来たような選手だったからである。

だから、落合は監督をやるようなタイプの人とは、私は思っていなかった。

 

 

もう1つの理由としては、落合は、確かにかつて中日ドラゴンズに在籍し(1987~1993年の6年間)、

その間、中日の不動の4番打者として、数々のタイトルを獲得して来た、という事も有ったのだが、

その落合は、一度は中日と訣別していた、という事が挙げられる。

 

 

1993(平成5)年のシーズンオフ、落合博満は、当時、制定されたばかりのFA(フリー・エージェント)の権利を行使して、

中日ドラゴンズから巨人へと移籍したのである。

落合は、昔から長嶋茂雄の大ファンであり、当時、巨人はその長嶋茂雄監督が率いていた、という事も、移籍の決め手になった。

「私が、長嶋さんの首を切ったら、末代までの笑い者になるので、何としても、長嶋さんを胴上げする」

落合は、そういった独特の表現で、堂々と巨人の優勝を宣言した。

落合博満という男は、そうやって何かをやる前には、必ず言葉に出して宣言し、自分にプレッシャーをかける事によって、力を発揮するタイプの男であった。

 

 

 

そして、その結果はといえば、この年(1994年)のセ・リーグは、巨人と中日が激しい優勝争いを繰り広げ、

1994(平成6)年10月8日の、中日-巨人の最終戦(ナゴヤ球場)を前にして、巨人と中日は69勝60敗という、全くの同率首位で並んでいた。

つまり、巨人と中日の最終戦で「勝った方が優勝」という大一番となったが、

この試合、落合博満は、今中慎二(中日)から先制のホームランと、2-2の同点に追い付かれた後に勝ち越しタイムリーを放ち、

結局、巨人が6-3で中日を破り、「10.8決戦」は、長嶋巨人に凱歌が上がった。

 

 

 

巨人の優勝が決まり、長嶋茂雄監督が満面の笑みで胴上げされたが、

落合は、誰憚る事なく、感極まって涙を流していた。

実は、この時、もし巨人が敗れていれば、落合はこの試合を最後に、現役引退する覚悟だったという。

その大一番で、落合は前述の通り、貴重な2打点を挙げ、途中、守備の最中に負傷退場したものの、見事に勝利に貢献した。

落合の涙は、物凄いプレッシャーに打ち克って、勝つ事が出来たという安堵の涙でもあり、

宣言どおり、長嶋監督の胴上げを実現させる事が出来たという、感激の涙でもあったのであろう。

…という事であるが、「10.8決戦」は、巨人の側から見れば、感動のストーリーであろうが、

敗れた中日側からすれば、悪夢のような出来事であった。


まして、FAで中日から出て行った落合に打たれて敗れたのだから、中日ファンとしては、何ともやりきれない思いだったのではないか。

 

 

その落合が、因縁の「10.8」決戦から9年後の、2003(平成15)年10月8日、

今度は中日ドラゴンズの監督として帰って来たのだから、中日ファンとしては複雑な心境だったに違いない。

しかも、落合は監督就任会見で、こう宣言した。

「今の戦力の底上げを中心に、秋・春のキャンプをして優勝を勝ち取る」

そう、落合は、補強をせず、現有戦力の底上げで、中日を優勝させてみせると「優勝宣言」したのであった。

「そんな事を言っちゃって、大丈夫かな…」

私も含め、多くのプロ野球ファンは懐疑的だったが、落合には「勝算」が有った。

 

<2002(平成14)年~2003(平成15)年…中日ドラゴンズの投手コーチ⇒監督に昇格した、山田久志監督が投手力・守備力を整備し、中日は2年連続Aクラス(3位⇒2位)に~中日に「守りの野球」が浸透>

 

 

1998(平成10)年シーズンオフ、当時、中日ドラゴンズ星野仙一監督だったが、

その星野監督の、たっての願いにより、かつての阪急ブレーブスのエースで、オリックスブルーウェーブで投手コーチを務めていた山田久志を、中日の投手コーチに招聘したのである。

山田久志は、オリックスの投手コーチとして、仰木彬監督を支え、1995(平成7)年~1996(平成8)年のオリックスのリーグ2連覇(※1996(平成8)年は日本一)に大きく貢献していたが、星野監督は、その山田久志の手腕を見込んで、中日の投手コーチとして、山田を招聘した。

 

 

 

 

星野監督の狙いは当たり、その年(1999年)、山田コーチのお陰で投手力を整備した中日ドラゴンズは、11年振り優勝を果たしたが、

星野監督は、2001(平成13)年に中日が5位に終わると、中日の監督を退任し、後任監督として、山田久志が就任した。

そして、山田久志監督は、就任早々、横浜ベイスターズからFAで谷繁元信捕手を獲得するなど、戦力を整え、

就任1年目の2002(平成14)年は3位、2年目の2003(平成15)年は2位と、山田監督体制で、中日は2年連続Aクラスを確保していた。

山田監督は、「守りの野球」を掲げ、投手力・守備力を更に整備していたが、この時期の中日は優勝こそ出来なかったものの、機は熟していたのである。

落合博満は、野球解説者として、そんな中日の事を外から見ていて、

「これなら、やり方次第では優勝を狙えそうだ」

という「勝算」を持つに至っていた。

つまり、落合には、ちゃんとした根拠が有って、先程のような「優勝宣言」をしていたという事であり、

落合は、決して、口から出まかせで、何かを言うような人物ではないという事である。

 

<2003(平成15)年の中日ドラゴンズの秋季キャンプ…落合監督「来年の春のキャンプの初日(2/1)に、紅白戦をやるから、そのつもりで身体を作って来い」と、中日の選手達に通告>

 

 

 

さて、こうして中日ドラゴ
ンズ
の新監督に就任した落合博満は、

早速、秋季キャンプを行なっている選手達と合流した。

そして、現役時代の中日ドラゴンズでの背番号「6」を2つ並べた、背番号「66」のユニフォームに身を包んだ落合監督は、

秋季キャンプでは、まずは小手調べといった趣であったが、秋季キャンプが終了する際に、落合監督は、選手達に、このように通告した。

「来年の春のキャンプの初日(2/1)に、紅白戦をやるから、そのつもりで身体を作って来い」

普通、春季キャンプでは、最初の頃は、まずは身体を作り、そこから徐々に仕上げて行くというのが、それまでの「常識」だったが、

落合監督は、初日から、いきなり紅白戦という実戦形式の練習をやるから、そのつもりで仕上げて来るようにと、選手達に伝えたのである。

中日の選手達に、ピリッとした緊張感が走った。

「この監督は、中途半端な事は許さないだろう」

と、その時、中日の選手の誰もが思った筈である。

 

<2003(平成15)年シーズンオフ…巨人の川相昌弘、横浜のドミンゴ・グスマンを「補強」~中日の「補強」は、必要最低限の、この2件のみ>

 

 

 

 

落合監督は、「補強はせず、現有戦力の底上げで、優勝を狙う」と宣言してはいたが、

それでも、必要最低限の「補強」は行なった。

まず、2003(平成15)年に、「通算512犠打」という「世界新記録」を達成していた川相昌弘(巨人)は、

巨人から現役引退を勧告され、巨人のコーチ就任を打診されていたが、川相は、これを固辞して、現役続行を希望していた。

 

 

 

 

落合監督は、川相昌弘の現役続行の意を汲んで、

川相を中日の秋季キャンプに呼んで、入団テストのような事も行なった結果、川相の獲得を決めた。

ベテラン・川相の守備力と、バントの技術の高さはピカイチであり、まだまだチームの戦力になるという事を、落合監督は確信しており、川相の獲得に踏み切ったという。

こうして、落合監督に拾われた川相は、中日で、もうひと花咲かせようと、大いに意気込んでいた。

 

 

 

 

 

もう1人、落合監督が目を付けたのが、横浜ベイスターズドミンゴ・グスマン投手である。

ドミンゴは、2002(平成15)年~2003(平成16)年の2年間、横浜ベイスターズに在籍し、

2002(平成14)年は19試合 4完投2完封 5勝5敗 防御率2.79、

2003(平成15)年は25試合 3完投2完封 8勝12敗 防御率4.69

という成績を残していたが、とにかくタフな投手であり、落合監督は、そのタフさを買っていたのである。

そのドミンゴは、打者としては「18打席連続三振」という珍記録も持っていたが、

それはともかく、2003(平成15)年限りで横浜をクビになったドミンゴを、落合監督は獲得した。

 

 

こうして、中日は川相昌弘に続き、他球団を戦力外になっていたドミンゴ・グスマンを獲得したが、

この2003(平成15)年シーズンオフで、中日が行なった「補強」は、この2件のみである。

あとは、落合監督は、就任の際に宣言した通り、「現有戦力の底上げ」で、優勝を狙うつもりであった。

 

<2004(平成16)年…「落合ドラゴンズ」の象徴となった、新ユニフォームを発表>

 

 

 

2004(平成16)年、中日ドラゴンズは、新ユニフォームを発表した。

これこそ、「落合ドラゴンズ」の象徴となったユニフォームである。

中日では、監督が代わると、ユニフォームのデザインを一新する事が多く、「政権交代」を印象付けているが、

このユニフォームの時代、つまり「落合ドラゴンズ」の時代は、本当に強かったので、

今でも、このユニフォームに懐かしさを覚える中日ファンは、とても多いと思われる。

 

<2004(平成16)年2月1日…春季キャンプ初日で、落合監督の宣言どおり、いきなる「紅白戦」が行われる>

 

 

 

 

2004(平成16)年2月1日、春季キャンプの初日、

中日ドラゴンズは、落合監督が宣言していた通り、いきなり「紅白戦」を行なった。

中日の選手達は、キャンプ初日に合わせ、全員、実戦形式の練習が出来るよう、身体を作って来ていたが、

中日のエース・川上憲伸も、勿論、「紅白戦」に登板した。

こうして、落合監督の狙いどおり、キャンプは緊張感溢れるものとなったが、中日の選手達の誰もが、生き残ろうと必死であった。

落合監督は、絶対に妥協を許さない監督である事は、もはや誰の目にも明らかだったからである。

 

<2004(平成16)年の中日ドラゴンズ①…荒木雅博・井端弘和の「アライバ」コンビ誕生!!~「二遊間」コンビであり、1・2番を打つ「アライバ」が、以後、「落合ドラゴンズ」の象徴に>

 

 

 

 

落合監督は、山田久志・前監督が浸透させていた「守りの野球」を、更に強化させる事を目論んでいた。

そのため、「守りの野球」を押し進めるため、荒木雅博・井端弘和の2人を、チームの中心に据えた。

ご存知、「アライバ」コンビの誕生であるが、荒木雅博・井端弘和は、守っては「二遊間」コンビを組み(二塁手・荒木雅博、遊撃手・井端弘和)、打っても1・2番コンビ(1番・二塁手:荒木雅博、2番・遊撃手:井端弘和)として、打線を牽引した。

この「アライバ」コンビこそが、「落合ドラゴンズ」の象徴となったというのは、皆様もよくご存じの通りである。

 

<2004(平成16)年の中日ドラゴンズ②…中継ぎ投手・岩瀬仁紀を、抑え投手に抜擢>

 

 

中日では、前年(2003年)はギャラード、大塚晶則などが、抑え投手を務めていたが、

落合監督は、それまで中継ぎ投手だった岩瀬仁紀を、抑え投手に抜擢した。

落合監督は、何よりも、岩瀬が抜群にタフである事を、非常に高く評価していた。

抑えという大役は、やはりタフでなければ務まらず、その役割には、岩瀬が打ってつけであると判断したのである。

後に、岩瀬仁紀「鉄腕」と称され、日本一の抑え投手として、史上初の「通算1000試合登板」も達成するほどの大投手になったのだから、落合監督の「眼力」は、流石であった。

 

<2004(平成16)年の中日ドラゴンズ③…それまで3年間、全く登板が無かった川崎憲次郎を「開幕投手」に起用する、大サプライズ!!~落合監督、森繁和・投手コーチの「深謀遠慮」とは!?>

 

 

 

 

こうして、戦力を整え、キャンプ・オープン戦を順調に消化した「落合ドラゴンズ」であるが、

2004(平成16)年4月2日、公式戦開幕戦の、中日-広島戦(ナゴヤドーム)では、ビックリ仰天の出来事が有った。

何と、FAでヤクルトから中日に移籍して来てからの3年間、右肩痛により、一度も登板が無かった川崎憲次郎が、「開幕投手」として登板したのである。

これには、ファンも関係者も、誰もが驚いたが、実は、この大サプライズには、ある目論見が有ったという。

 

 

落合監督は、自らの参謀として、現役時代から親しかった森繁和を、投手コーチとして招聘していたが、

落合監督は、基本的には、投手起用は全て森繁和・投手コーチに任せていたものの、

川崎憲次郎「開幕投手」だけは、自らが強く主張し、実現させたという。

「このチームが変わるために、3年間必死にもがき苦しんできた男の背中を押してやることが必要だ」

落合監督は、川崎の起用の意図を、そのように説明したが、チームの士気を高めるため、敢えて、川崎を起用したのである。

また、一説によると、チームの機密情報が外部に漏れていないかどうかを、試す意図も有ったようである。

この後、「落合ドラゴンズ」徹底的に、機密漏洩に厳重な注意を払い、報道陣にも必要最低限の情報しか与えなかったが、

これは、落合監督、森繁和・投手コーチが、「チームが勝つ事」を、何よりも優先させていたからであった。

 

 

なお、川崎憲次郎は、期待に応える事が出来ず、1回2/3で5失点を喫してしまい、

中日は、いきなり0-5のビハインドとなってしまったが、そこから中日打線が奮起し、5点ビハインドを引っ繰り返し、中日は8-6で大逆転勝利を収めた。

その後、中日は勢いに乗り、広島相手に開幕3連勝を飾り、「落合ドラゴンズ」は最高のスタートを切った。

 

<2004(平成16)年の中日ドラゴンズ④…川上憲伸、山本昌、ドミンゴの「三本柱」と、「守り勝つ野球」を実践した野手陣の投打が噛み合い、中日ドラゴンズは5年振り6度目の優勝!!>

 

 

 

 

 

 

さてさて、その後の2004(平成16)年の中日ドラゴンズであるが、

落合監督が掲げる「守りの野球」が機能し、中日は抜群の投手力を活かし、

「少ないチャンスで確実に点を取り、それを投手陣が守り切る野球」

を、年間通して、貫き通した。

この年(2004年)の、中日ドラゴンズの投手陣の中心となったのは、川上憲伸、山本昌、ドミンゴの「三本柱」であるが、

彼らは、下記の成績を残した。

 

川上憲伸 27試合 5完投2完封 17勝7敗 防御率3.32

山本昌 24試合 1完投1完封 13勝6敗 防御率3.15

ドミンゴ 23試合 10勝5敗 防御率3.76

 

大エース、川上憲伸は17勝でMVPを獲得し、当時39歳の山本昌は13勝を挙げ、

落合監督に拾ってもらったドミンゴも10勝を挙げた。

この「三本柱」がしっかりしていたからこそ、「守りの野球」が実践出来たのであった。

 

 

 

また、前述の「三本柱」が投げた後は、落合英二、岡本真也、平井正史、小笠原孝らの鉄壁のリリーフ陣が引き継ぎ、

最後は、抑えの切り札・岩瀬仁紀が、しっかりと締めくくる、というのが、中日の勝ちパターンであった。

岩瀬仁紀は、この年(2004年)、60試合 2勝3敗22セーブ 防御率2.80という成績を残し、

「クローザー・岩瀬」として、長く活躍する第一歩を記した。

 

 

 

荒木雅博-井端弘和-立浪和義-福留孝介-アレックス-井上一樹-渡邉博幸-谷繁元信…

と続く打線は、得点力はそれほど高くはなかったが、「ここ一番」という場面で、少ないチャンスを確実に活かすしぶとさが有り、相手チームに嫌がられたが、何よりも、中日の守備力は鉄壁であり、簡単には点を与えない野球をしていた。

つまり、「落合ドラゴンズ」は、非常に接戦に強く、いつの間にか、相手よりも優位に立つ展開を得意としていた。

こうして、投打が噛み合った「落合ドラゴンズ」は首位を独走し、優勝に向かって突き進んで行った。

 

 

 

 

 

そして、2004(平成16)年10月1日、「マジック1」中日ドラゴンズは、ナゴヤドームでの広島戦に敗れたものの、

2位・ヤクルトも敗れたため、遂に、中日ドラゴンズの5年振り
6度目の優勝が決定した(79勝56敗3分 勝率.585)。

試合が終了し、就任1年目で見事に中日ドラゴンズを優勝に導いた落合博満監督が胴上げされたが、

普段はポーカーフェイスの落合監督も、この時ばかりは、万感溢れる、感極まった表情をしていた。

落合監督は、「現有戦力で優勝する」という事を実現させ、見事に「有言実行」を果たしたのであった。

これが、記念すべき「落合ドラゴンズ」最初の優勝である。

 

<2004(平成16)年の「西武-中日」の日本シリーズは、中日が3勝2敗と先に「王手」をかけながら、ナゴヤドームで連敗し、「日本一」は成らず…~「打力不足」を痛感した落合監督の、次なる一手とは!?>

 

 

 

 

2004(平成16)年の日本シリーズは、落合博満監督率いる中日ドラゴンズと、伊東勤監督率いる西武ライオンズという、

就任1年目で、チームをリーグ優勝に導いた監督同士の対決となった。

この日本シリーズでは、中日が先に3勝2敗と「王手」をかけたものの、中日は地元・ナゴヤドームで西武に連敗してしまい、中日は惜しくも、1954(昭和29)年以来、50年振りの「日本一」達成は、成らなかった。

「落合ドラゴンズ」の「日本一」への挑戦は、翌年(2005年)に持ち越しとなったが、

落合監督は、「守りの野球」でリーグ優勝は果たしたが、日本シリーズでは、西武の一発攻勢に屈してしまった。

落合監督は、「日本一」になるためには、更に打力も必要であるという事を、痛感したが、その「打力不足」を補うために、落合監督は、次なる「一手」を考えていた。

 

(つづく)

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